今日のことば

真宗大谷派(東本願寺)能登教務所の入り口北側の掲示板に掲げられた「今日のことば」です。クリックすると説明を見ることができます。

ことば よみかた
遠慶宿縁 おんきょうしゅくえん
心得開明 しんとくかいみょう
報恩講 ほうおんこう
念仏・念法・念僧 ねんぶつ・ねんぽう・ねんそう
歸依於佛者・終不更歸依・其餘諸天神 きえおぶっしゃ・しゅうふきょうきえ・ごよしょてんじん
到彼岸 とうひがん
一心華文 いっしんかもん
凾蓋相稱 かんがいそうしょう
歓喜光 かんぎこう
佛佛相念 ぶつぶつそうねん
唯是自力・無他力持 ゆいぜじりき・むたりきじ
澍法雨 じゅほうう
有無同然・憂思適等 うむどうねん・うしちゃくとう

遠慶宿縁(おんきょうしゅくえん)

【出典】
『顕浄土真実教行証文類(教行信証』「総序」(『真宗聖典』150頁)
ああ、弘誓の強縁、多生にも値がたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲えば、遠く宿縁を慶べ。

【作者】親鸞聖人

【ひと口解説】
親鸞聖人は、師である法然上人から受け取った仏道の課題を、主著『教行信証』にまとめられました。それを一貫する思想とは「選択本願せんじゃくほんがんの行信ぎょうしん」と言えますが、その冒頭の序文において、本願の行信を得た喜びを、「どれほどの時間をかけても、獲得されるものではなく、遠く、また深い因縁が私にまでなってくださったのだ」と表現されます。そこには、自分が今であっているものの背景の深さが味わわれているのでしょう。
毎日見ている私の顔、どれほどの深さをもってここにいるのか。問われてくる言葉です。

生きてるだけでまるもうけ

【作者】油屋熊八(明石家さんま)

【ひと口解説】
お笑い芸人のトップに君臨する、明石家さんまさんの座右の銘として知られる言葉ですが、元は亀の井ホテルの創業者であり、別府の街を活性化させた油屋熊八氏の言葉です。
人間は裸で生まれてきて、何も持てずに死んでいく。ならば、いのち終えるときに着物一つでも着ていられたら、それだけでまるもうけではないか。
そもそも、マイナスなどない「命」を私たちが生きているということを教えられる言葉です。そこから、ないない尽くしで生きている私たちの姿が問われてきます。

心得開明(しんとくかいみょう)

【出典】
『仏説無量寿経』「三毒段」 (『真宗聖典』64ページ)
弥勒菩薩、長跪して白して言わく、「(中略)今仏に値うことを得て、また無量寿仏の声を聞きて歓喜せざるものなし。心開明することを得つ。」

【作者】釈尊

【 ひと口解説】
お釈迦様は、人間の相すがたを貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚癡(真実が見えない)の三つ(三毒)で押さえられま すが、その言葉を受けた弥勒菩薩が、仏の智慧に出あった人はどのようになるのかを語る言葉です。智慧に遇う者は、心に開かれた明るさという ものをいただくのだ、と。そこから私たちの暗さ、狭さとは何か。何が私たちを縛っているのかが問われてきます。

子供を不幸にする一番確実な方法は何か。
それは、いつでも何でも、手に入れられるようにしてやることだ。

【出典】 『エミール』
【作者】 ジャン=ジャック・ルソー

【ひと口解説】
フランスの哲学者・教育者・音楽家であったルソーが、人を育てることについて語った言葉です。私たちは、子供に対して、何か物をほしがるまま に与えることが、その子の幸せであり、親や祖父母として、不自由なく育てていることのように思いがちですが、それは返って人間の本質が見えなくなっていくことだとルソーは指摘します。これは子供に限ったことではなく、大人にとっても言えることでしょう。本当にほしいもの、求めねばならいものは何か?

報恩講(ほうおんこう)

【ひと口解説】
毎年、この季節になると、宗祖親鸞聖人のご命日である11月28日を一つの節目として、それぞれ日をずらしながら全国各地の浄土真宗のお寺で「報恩講」が営まれます。どの仏事、行事よりも報恩講を大切に勤めてきたその姿から、「浄土真宗教団は報恩講教団である」と古来言われてきました。それは、真宗の教えに立って生きようとする者の姿勢が、必ず報恩という形をとるからでありましょう。
報恩とは、「恩に報むくいる」と読みますが、恩とは親鸞聖人のご恩のみを指しているのではありません。私たちは色々なものにお育てをいただいて、今、ここ、を生きています。日ごろ心ではそのことをすっかり忘れているのではないでしょうか。忘れる者だからこそ、集い確かめ合おう、そういう願いで報恩講が勤められてきているのです。
「恩を報しらせる場(講)」に足を運び確かめ合おうではありませんか。

自分が自分になった背景を知る。
それが恩を知るという意である。

【作者】安田 理深(真宗大谷派僧侶)

【ひと口解説】
「恩を感じる人がいますか?」と問われて、どなたの顔を思い浮かべるでしょうか。困っているときに力を貸してくれた人、成長過程において、手を引いてくれた人、色々な方のお顔が思い浮かぶことでしょう。ただ、その人たちは、皆、直接出会ったことのある人ではありませんか?けれども、私が今、ここに私としている、その背景はどれほどのものでしょうか。考えてみれば、「おぎゃあ」と生まれたところから「私」が始まっているのではありません。この身が肉体的に生まれてくるだけでも、20代500年ほど遡れば、全部で210万人ほどの人(ひぃひぃひぃ…じいちゃん・ばあちゃん)がおられるのです。それぞれが影響し合い今の私を生み出し、また多くの人の影響を受けて今の私となっているのです。そのことを知らされて初め て恩を知ったと言えるのでしょう。あなたは恩を知っていますか?

念佛・念法・念僧(ねんぶつ・ねんぽう・ねんそう)

【出典】
『観無量寿経』「宝池観」(『真宗聖典』100ページ)
和鳴哀雅にして、常に、念佛・念法・念僧を讃ず。

【ひと口解説】
仏教徒が大切にする言葉として「三帰依文さんきえもん」があります。仏・法・僧の三つに帰依することを誓う言葉ですが、それぞれの意味は、子供用に作られた「ちかいの言葉」で確かめることが出来ます。この言葉は、「わたくしたちは」から始まり、それぞれ「ほとけのこどもになります」「正しい教えを聞きます」「みんな仲良くいたします」と続きます。仏の子供とは、人生の向かうべき方向を背中で示してくれる先生(先に生きる人)と言えます。また、正しい教えとは、私の都合に合うものを言うのではなく、私にとって大切なものとは何か問いかけるもの、いつでも目を醒さまさせるものを正しい教えと言います。そして、みんな仲良く、というのは、私の都合にあう人だけがみんなではなく、都合に合わない人、嫌いな人も含めての「みんな」です。私の都合を超えて仲良く生きる道、それを諦めもせず、開き直りもせず、尋ね歩んでいきたい。―これが仏教徒の旗標はたじるしなのです。
念とは、今の心と書き、自分の中心に据えるという意味を持ちます。つまり、標題の言葉は、仏法僧の三つを自分の中心に据えると いうことです。
本当に大切なもの、あるべきものが、あなたの中心にありますか?

人生には午前と午後がある。
人生の午前のプログラムに従って
人生の午後を生きることが出来ないし、
人はその境を知らぬままに生きている。

【作者】ディック・J・ライダー(コンサルタント)/ユング(心理学者)

【ひと口解説】
人生には、午前と午後があるとユングは説きました。その中で、人生における「正午」がいつであるのか、人は前もって知ることは出来ない、と説きます。確かにそうです。何度も経験する一日であれば、そこが正午であることを前もって予測できますが、一度きりの人生においては、正午がいつか分からず、知らず知らずのうちに、人生の午後に差し掛かることとなります。そして、人生の午後とは、それまでの価値観(お金・地位・名誉)などが役に立たなくなる時期だと言います。人生の達人の一人がそう語る一方で、テレビでは、お金・地位・名誉の話ばかりです。
さて、どこで人生の午後においての大切なものを問い直しましょうか?

歸依於佛者・終不更歸依・其餘諸天神(きえおぶっしゃ・しゅうふきょうきえ・ごよしょてんじん)

【出典】
『大般涅槃経』「如来性品」
仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ。

【ひと口解説】
「帰依する」とは、辞書を引けば、「神仏を信仰しその威徳にすがること」とあります。しかし、この『涅槃経』の言葉は、仏に帰依するということがどういうことであるか、きちんと押さえています。仏に帰依するということは、命尽きるまで(終)、再び、もろもろの神にすがる私にかえらない(更)ということだ、と。仏に帰依するということがはっきりするならば、神に頭を下げることは出来ない、ということです。神とは何を指しているのでしょうか。タウンページなどの広告を見ればよく分かります。
そこには「創建1300年 御利益 商売繁盛 交通安全 ボケ封じ」とあったりします。けれども、1000年以上前に何の事故にあうのでしょう?認知症になるまで生きた人がいたのでしょうか?いるはずがありません。ということは、私たち人間が自分たちの都合で都合にあう神様を作ってきたのです。厳しく言えば神さますら利用してきたのです。仏さまに帰依するということは、そういう私の姿がはっきり見せられたことに他なりません。だから、そんなさもしい私には戻らない、私の都合に振り回されない生き方が始まるのです。

恵方巻き おのれの身勝手 寿司を食う

【作者】橋本 真(真宗大谷派僧侶)

【ひと口解説】
ここ数年ですっかり定着したものに「恵方巻き」があります。これは元々、大阪の商人の間であった習慣を、大手コンビニが1990年代後半に「恵方巻き」として全国展開したことに端を発しているとされます。それがわずか十数年で国民的行事のような様相を呈してきました。あらためてマスメディアの力の恐ろしさを実感いたします。バレンタインや、近頃流行りだしたハロウィンもそうですが、何故それをするのかを問わなければ、知らず知らずのうちに、売らんかなの商業主義に踊らされていくばかりではないでしょうか。
恵方巻きは、今年の恵方に向かって願い事を心の中に浮かべ丸かじりするとされていますが、あなたはどんな願いごとをしますか?子供の幸せを願うという人、お金を求める人、健康を願う人、長生きを願う人、色々おられるでしょう。けれども、その願いは全て身勝手なものだ、と言っては言いすぎでしょうか。子供の幸せを願うことも、その奥に私の都合がないでしょうか?あなたのこと信じているからね、と言いながら、自分の思いの枠に閉じ込めようとするように。私たちの願いは大概身勝手です。願えば願うほど、私のわがままがさらけ出されています。たとえ世界平和を願ったとしても、そこには私に危害が加わらないように、という自己中心が隠れていないでしょうか?仏様の教えは、そういう人間の姿を余すことなく教えてくれます。

到彼岸(とうひがん)

【出典】
『大般涅槃経』「迦葉品」(『真宗聖典』310頁)
いかんが一名に無量の名を説くや。なお涅槃のごとし。また涅槃と名づく、(乃至)また到彼岸と名づく。

【ひと口解説】
三月の春分の日を中心として前後三日ずつ、一週間、お彼岸の法座が各宗派で務まります。この「彼岸会ひがんえ」は日本独特のものとされ、太陽が真西に沈む日に、死後の世界を「彼岸」(生者の世界を此岸しがんとします)として連想し、その世界へさまざまな功徳を差し向けて、縁ある死者や死後の安寧を祈るものとして、江戸時代から定着しました。
しかし、仏教本来の意味からは少しかけ離れていますし、こと浄土真宗においては、彼岸会は死者や死後の安寧を祈るものではありません。「彼岸」とは、決して死後の世界ではなく、私たちの生滅するいのちの依って帰る処を言います。ですから、彼岸とは実体化して語られる世界ではなく、真宗のお彼岸は、亡き人を縁として、この私のいのちが帰っていく処を確かめ合うものなのです。そして、いのちが帰る処を確かめるということは、この瞬間瞬間の「今」が「彼岸に到り続ける今」として、本当に確かなものとして生きられているかを問うことでもあります。
もう今年も二ヵ月が過ぎました。完全燃焼の「今」を過ごしていますか?

そのうち…そのうち…そのうち…と、
結局何もやらなかった
そのうちそのうち日が暮れる
今来たこの道かえれない

【作者】あいだみつを

【ひと口解説】
日頃、瑣末な事柄に追われている私たちは、いろいろなことに優先順位をつけて過ごさなければなりません。そのときについつい後回しになることがたくさんあります。けれども、その中で大事なこととして、「私が私として生まれた意義を問い尋ねる」ということがあります。私たちの先人たちはそのことを「聞法(仏法聴聞)」として大事に生活の中に楔として残してきました。けれども、その大切な伝統はいつの間にか薄れ、「まだ仏教聞くような歳じゃない」と、そのうちにしているのではないでしょうか。しかし、この言葉が示すように私たちの人生は、後戻りのきかない道を歩んでいるようなものです。
「こんなはずじゃなかった」と自分の人生を卑下したり、「誰のせいや」と人や何かを恨んだり、「あれは一体なんだったんだ」と嘆いたり、そんな人生と一線を画すものを完全燃焼の人生と言うのではないでしょうか。
あなたは「そのうち・・・そのうち・・・」で生きていきますか?

一心華文(いっしんかもん)

【出典】
『顕浄土真実教行證文類(教行信證)』「信巻(『真宗聖典』210頁)

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家ろんげ・釈家の宗義を披閲す。
広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明證を出だす。

【ひと口解説】
梅が咲き、桜が咲くと、いよいよ春が訪れます。学生に限らず、この四月から新たな歩みだしをされる方が多くおられることでしょう。送り出される方も、送り出す方も、期待や不安、色々な思いが胸中に入り混じっていることと存じます。幸不幸を言うことなく、味わい深い日々が送られますよう念じあげます。
標題の言葉は、親鸞聖人が主著である『教行信證』に記されたもので、ご自身の名前の一字としていただかれた、インドの世親菩薩(天親菩薩:~400年頃)がお書きになられた『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』を讃えた言葉です。一心とは、真の信心のことで、それが華開いたものこそ『浄土論』であるとされました。
私たちは、メディアや書物を通して様々な言葉に出会います。しかし、その中で、この言葉こそ一生を貫いて大切にすべきものだと言えるものに出会っているでしょうか。人間は言葉で迷い言葉に救われる存在だと言います。新たな歩み出しの季節、襟を正していきたいものです。

勉強するから、何をしたいか分かる。
勉強しないから、何をしたいか分からない。

【作者】 北野武(映画監督)

【ひと口解説】
芸人、俳優、映画監督と多才で知られる北野武(ビートたけし)さんの言葉です。人間の様相を切り取って映像にする映画監督だけあって、平易な言葉で人生の大切な面を言い当てておられます。
小学校高学年から中学生くらいになると「何で勉強しなきゃいけないの?」と問うようになりますが、大人はなかなかそこに答えるものを持っていないのではないでしょうか。役に立つ、立たないで言えば、経済至上の世の中では、多くが役に立たないものになるでしょう。けれども、一人の人間が一生を送るのには、「本当に大切なこと」「本当にやりたいこと」が明らかにならなければなりません。そうでなかったら、ただ食べる為に生きているのでしょう。
私は何をしたいのか、何を求めているのか。そのことを尋ねていく大切な手だてとして学びがあるのです。学びを学問(問いを学ぶ)と言ってきたのはそのことをよく表しています。
あなたが本当にしたいことは何ですか?学びの歩み出し、学生諸君とともにはじめてみませんか。

凾蓋相稱(かんがいそうしょう)

【出典】
『無量寿経優婆提舎願生偈註(浄土論註)』(『真宗聖典』170頁)
「相応」は、たとえば函(凾)と蓋と相い稱えるがごとしとなり。

【作者】
曇鸞大師(中国・476年~542年)

【ひと口解説】
「伝言ゲーム」という遊びをご存知でしょうか?数人のグループになって、順番にあるメッセージを伝えていき、その正確性を競うゲームです。大人であっても、最後の人のところでは、はじめの物と全く違ったものになったりします。これは人間の聞き間違いを利用した遊びですが、仏教ではこのことを「同聴異聞」と言って、自分の都合で聞く人間の姿を言い当てています。同じ事を聞きながら、それぞれの都合(自我)で聞くために、全く異なった受け取りをしている、と。言葉を放つ側の思いや願いと、受け取る側の思いがぴたりと合った様を、箱の上下に譬えて、「凾蓋相稱」と曇鸞大師は表現しました。
日頃を振り返ってみれば、相手が放った言葉をわたしたちは本当に受け止められているでしょうか。メールやLINEでの会話が主流になりつつあるこのご時勢、言葉だけではなく、表情、声のトーン、醸し出す雰囲気、色々なものを感じて、相手の大切な言葉を受け止めたいものです。

ひょっとして、役に立つ、立たないだけで、相手の言葉、聞いていませんか?

届いてしまえば決して引き戻せないから愛ある言葉を

【作者】 越智志帆(superfly)

【ひと口解説】
小柄な身体からは想像もつかないような、パワフルな声で人々を魅了するアーティスト、越智志帆(superfly)さんの言葉です。
私たちは、日頃、何気なく言葉の重さを使い分けています。日常の会話は「しゃべる」、大事な事を言う時は「話がある 」というように しかし、その重さに違いを持たせていても、相手の何気ない一言で心が温まったり、忘れられないほど傷ついたりしてしまうのが現実です。だからこそ、日々交わす言葉を大事に、「愛ある言葉」にしたい。そういう作者の願いにあふれた言葉です。ここで大切なことは、本当の愛とは何かということです。単に相手を傷つけないようにするだけの言葉は、相手に本当に届く愛ある言葉ではないのではないでしょうか。
たとえば、子供に言葉をかけるとき、真の愛ある言葉とは、やさしい「いい子いい子」だけの言葉ではないはずです。本当に相手を歴史的存在(生まれ生き死していく者)として見出すとき、例え相手が理解できなくても、受け止められなくても、かけ続ける、そういう言葉が愛ある言葉と言えるのではないでしょうか。そうでないなら、それは、相手に良く思われる、あるいは悪く思われないための自己防衛の言葉なのでしょう。
思いやりをもって、本当の愛ある言葉を掛け合い、日々を生きていきたいものですね。

歓喜光(かんぎこう)

【出典】
『仏説無量寿経』(『真宗聖典』30頁)
無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号ごうす。

【ひと口解説】
能登の各地で「歓喜光院御崇敬」という行事が勤められています。この歓喜光院とは、東本願寺第19代・乗如上人しょうにんの院号(尊称の一種)で、乗如上人は、東本願寺の二つの御堂が天明の大火で焼失した折に、再建の先頭に立たれた方です。
その際、惜しまず再建に尽力した能登各地の御門徒に、消息(お手紙)と寿像(乗如上人の絵像)が送られました。その事を縁として御崇敬が今も大切に勤められているのです。
さて、この歓喜光は、もとは浄土真宗の本尊である阿弥陀如来のはたらきを表した言葉です。阿弥陀如来の光に出あった者は歓喜(本当の喜び)を得ると語られます。このはたらきは、具体的には、私たちの基本的な煩悩(三毒の煩悩)のうち、瞋恚しんにの煩悩を治すものとされます。本当に求めることが分からないために(愚癡)、自分にとって好ましいものを貪り求め(貪欲とんよく)、逆に好ましくないものをいかり遠ざけて(瞋恚)迷っているのが我々です。では、好ましくないものとは何でしょうか?それは、地位や名誉や財で人に劣っていることであったり、嫌いな人と一緒にいることであったり、愛する人との別れであったり、病むこと、老いることであったり、そして死んでいくことであったり。数え上げればきりがありません。けれども、それは全て、私の「思い」が中心にあるのではないでしょうか。私たちは思いを超えた事実を生きています。私の思いを中心にして、好き嫌いだけを求めていく先に、私が私でよかったと言えるようなものは決してありません。
本当の喜びとは何か、尋ねてみませんか?

老いや病や死によって人生が挫折するのではなくて
むしろ、老いや病や死が、人生を輝かせてくださる。

【作者】 湯浅成幸(真宗大谷派僧侶)

【ひと口解説】
若いうちには、なかなか実感することはありませんが、中年を過ぎた頃から徐々に実感されてくるものとして、老いや病があります。その不安感をつかまえて厄年などがあるのでしょうし、また、テレビなどでは、美魔女などと言って年齢に相応しない外見的な若さを持った方が誉めそやされたりしています。そういった若さと健康を求める状況に慣らされた私たちにとっては、老いや病や死は、あまりにも遠ざけたいがために、言葉にするのもはばかられるような感がありますが、それは、どこか遠くからやってくるのではない、ということを忘れていないでしょうか。
老いも病も死も、「おぎゃぁ」と生まれたところから私たちが持っているものです。その事を忘れてしまうと、ずっと追いかけてくる老病死の事実から逃避するばかりの人生が待っていますし、思いもしないような病気にかかれば、人生そのものが挫折してしまいかねません。
仏さまの教えを通して、私自身が生まれながらにして持っているものとしての老いや病に向き合うとき、かえってその避けたいものが、人生を輝かせるものとしていただきなおされてくるのです。
眼を背けて逃げるばかりではなく、また、そのうちいつか納得する、ではなく、今、教えを聞いて向き合ってみませんか?

佛佛相念(ぶつぶつそうねん)

【出典】
『仏説無量寿経』(『真宗聖典』7頁)
今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔巍巍とまします。(乃至)
去・来・現の仏と仏と相念じたまえり。

【ひと口解説】
「神仏に祈る」という言葉にも表されるように、しばしば、仏とは、神と並べて人知の及ばない存在のように語られます。しかし、仏教本来の意味においてはそうではなく、仏とは「真理の法」(存在の道理)に目覚めた者ひと(覚者)を指します。考えてみれば、私たちはそれぞれ深い深い歴史的背景をもってここに存在しています。けれども、日ごろの心ではそのことに眼を向けることがないままに、好き嫌い、良し悪しで量り続けているのではないでしょうか。
この言葉は、お釈迦さまのお弟子で、ずっと身の回りの世話しておられた阿難あなん尊者が、ある日お釈迦様のお顔を拝見して、驚きをもって語った言葉です。「お姿は光り輝く高い山のようであり、過去・未来・現在の仏さまたちと互いに念じあっておられたのですね」と。過去の仏とは、生涯を尽くし、自分の存在の道理(背景)に目覚めた方であり、未来の仏とは、必ず自分自身の尊さに目覚める方であり、現在の仏とは、今まさに自分の人生を完全燃焼している方です。阿難尊者は自分が未来の仏としてお釈迦様に拝まれ、願われていたことをここで初めて知ったのです。では、阿難尊者はそれまでお釈迦様をどのように見ていたのでしょうか?もちろん尊敬はしておられたでしょうが、それでも上と下のものさしで見ていたのでしょう。上を見れば、当然、自分はそれよりも劣ったつまらないものになります。逆もまた然りです。そのものさしが破られたところに、既にあった自分の身の尊さを教えられたのです。良し悪しを神仏に祈るより、好悪を超えて本当に仏さまと拝めるような眼をいただき続けたいものです。

そうだ!
うれしいんだ、生きるよろこび
たとえ、胸の傷が痛んでも

【作者】 やなせたかし(アンパンマン作者)

【ひと口解説】
当たり前のことですが、私たちは、現実を生きています。その現実の中で、私たちはそれぞれ“思い”というものを持っています。この“思い”と“現実”がきちんと、あるいはそこそこかみ合っていると幸せを感じますが、事実そのようなことはわずかです。
現実は簡単に、冷酷に私たちの思いを打ち砕きます。愛する人との別れであったり、職場や学校で人間関係がうまくいかなかったり。病気にかかったり、老いることで、自分の身そのものにも思い破られます。そのたびに傷つき、心折れて、へたりこんでしまう。時には、何でこんな目にあわなきゃならないんだ、と人生を投げ出してしまいたくなります。
けれども一つ考えてみれば、現実と思いはどちらが先にあるのでしょう。私たちは“思い”を抱えて生きているゆえに、勘違いしがちですが、必ず現実が先にあるのです。「納得するしないって、納得して生まれてきたわけではなかろうに」という金言が示すとおりです。
この言葉が、「そうだ」と確かめることから始まるのは、様々な思いを破る現実に打たれ、胸に傷を抱いたところで、忘れていってしまうものがあるということではないでしょうか。そのことが、実は生きているそのもののよろこびなのです。
心臓は頼みもしないのに、動いてくれています。胃腸はお願いしなくても、食べ物をきちんと消化してくれます。思いを超えた身を私たちは生きています。それこそが「生きるよろこび」なのでしょう。
思い破る現実の中で、忘れがちな、生きることそのもののよろこびを思い出す場が聞法の場(教えを聞く場)として大事にされてきました。
皆さんも思い出してみませんか。

唯是自力・無他力持(ゆいぜじりき・むたりきじ)

【出典】
『無量寿経優婆提舎願生偈註(浄土論註)』(『真宗聖典』168頁)
この難にいまし多くの途あり。(乃至)五つにはただこれ自力にして他力の持たもつなし。

【作者】 曇鸞大師(中国・476年~542年)

【ひと口解説】
親鸞聖人が尊敬し、その名の一字をいただかれた方が曇鸞大師です。曇鸞大師は、主著である『浄土論註』の冒頭において、人が真実に生きる道を求めていくことが難しい理由を五つあげられますが、その五番目の理由が標題の言葉です。「ただ自力のみにこだわって、他力というものを考えない」からだと。よく「他力本願では駄目だ。自力でなければ」という誤った使い方をされる「他力」「自力」という言葉は、決して他人の力をあてにすることと、自分の努力を指しているのではありません。自力とは、自分の身体・心・力・経験をあてにすることです。けれども、それらのものは、最初から自分に備わっていたものでしょうか?この身体も心も、様々な力も、元をたずねれば全て後から与えられたものではないでしょうか。いくら自力を尽くすと言っても、その自力の背景となるものは、私が思うよりももっと深く広いものなのです。それが「他力」という言葉で表されるものです。他力を知るということは、全てがいただきもの、お預かりものとして、今、ここにあると教えられるということです。そこに、本当の意味で結果を問わない「今」を尽くしていく日々にであえるのではないでしょうか。

最近はがんばれって言わないほうがいいなんて聞いたわ。
なんか気に入らないわね。
わたしは言うわよ。がんばりなさいよ、死ぬ気でがんばりなさいよ。
血吐くまでがんばりなさいよ。
その先に見えてくるものがあるんだから。

【作者】 リトル・ミィ(トーベ・ヤンソン作ムーミン)

【ひと口解説】
近年、長時間残業などによる過労死の問題が出てきてから、あるいはうつ病を患う方が増えてきたことからか、「がんばれ」という言葉があまりいいものではないような扱いになってきています。限界まで身心を削って努力しておられる方に、それ以上「がんばれ」ということはかけてはならない言葉なのでしょう。けれども、努力とはそもそも何のためにするものなのでしょう。努力とは、期待する未来を現実にするために行うものであることは間違いありません。しかし、その結果が期待したものにならないと、努力した自分を責め、あきらめ、努力を強いた周囲を責め、努力そのものが無意味になりかねません。では、期待した結果を得られない努力とは無意味なのでしょうか。
考えてみれば、生まれたところから私たちは色々なことに出会い、出来ないもの、知らないものを手に入れて、世界を広げてきました。とすれば、努力とは、今自分が思い込んでいる世界を広げるものなのではないでしょうか。結果を期待して手垢をつけてするものではなく、いただいている場に尽くしていくことが努力なのでしょ う。ある賢哲が「天命に安んじて人事を尽くす」とことわざを言い換えられました。それは、自分の今まで見知ったつもりになっている世界に閉じこもっていく私が、一つ一つのことに結果を期待せず、諦めず尽くしていくところに世界がまた一つ開かれていくことを示しているのではないでしょうか。目の前のことを丁寧に努めていく事、それが「がんばり」です。そこに常に初事の世界が広がり続けていくのです。

澍法雨(じゅほうう)

【出典】
『仏説無量寿経』(『真宗聖典』3頁)
また大乗のもろもろの菩薩と倶なりき。(乃至)みな普賢大士の徳に遵がって、もろもろの菩薩の無量の行願を具し一切功徳の法に安住せり。(乃至)法剣を執り、法幢を建て、法雷を震い、法電を曜かし、法雨そそぎ、法施を演ぶ。常に法音をもって、もろもろの世間に覚らしむ。

【ひと口解説】
梅雨もあけ、いよいよ夏本番となりました。長い雨の季節は、いろいろとわずらわしいことが増えて、食べるものにも気を遣わなければならないので、皆、梅雨明けを心待ちにしますが、そのことによって、雨が私たちにもたらせてくれるものを忘れるのも事実ではないでしょうか。
標題の言葉は、お釈迦様が阿弥陀如来の教えを説かれる場に集われた、大乗の菩薩方のお徳を讃える言葉です。大乗とは、大きな乗り物という意味で、お釈迦様が覚られた真理の法の体得を目指し、その覚りをもって一切衆生を救おうとするのが、大乗の菩薩です。その教えはまるで雨が降り注ぐかのように、我々を包むものだ、と表現されます。考えてみれば、雨が降らなければ、全ての生き物は生きていくことが出来ません。私たちの都合で言えば、どんよりとした雨空よりも晴れた空の方が気分も健やかになりますが、その晴れた空を健やかに見上げることが出来るのも、雨の日があるからなのでしょう。
空模様はよく、私たちの人生に譬えられます。雨の日こそが実は晴れの日を本当に教えてくれる大事な時なのではないでしょうか。自分の都合に合わないものに出あう時こそ、私たちそれぞれの人生を支えているものにあらためて眼を向け、人生の本当の尊さを確かめる大事な機縁とすることができるのです。

「雨が降るから大変だね」の言葉に
「雨が降るから楽しかったんよ」
と園児の返事

【作者】上野信子『いっしょに楽しい子育て』

【ひと口解説】
教えを聞くということが、仏教においては大切なこととされますが、そこには、聞き方ということがまず問題となります。それはどこまでも、自分の都合、感覚、経験、知識を、常識・当たり前のこととして、そこに合うか合わないか、もっと言えば、役に立つか立たないかで聞いてしまうのが、私たちのあり方だからです。自分の都合を振りかざしている姿を教えられるところから、本当に教えを聞くということが始まっていきます。ひとたび、そういう眼をいただいてみれば、子どもとの何気ない会話の中にも教えはあるのです。
標題の言葉は、雨に出あった先生と園児のやり取りです。先生は、雨の中大変だろうと思い、園児に声をかけますが、その言葉に、園児は、「雨が降るから楽しかった」と応えます。何気ないやりとりですが、そこには、大人のものさしが浮き彫りにされています。雨は都合の悪いものだ、と私たちは常識として全く疑うことをしませんが、それは雨のもたらすものを無視し、あたりまえとしているあり方ではないでしょうか。雨は全てのものを育んでくれています。雨が降らなければ、地上はたちまちに乾いて、全ての生き物は死滅してしまいます。私たちの都合を振りかざしたところに、その事実はすっかり忘れ去られているのではないでしょうか。
晴れの日は晴れをご縁に、雨の日は雨をご縁に――空をあらためて見上げてみませんか。私の都合がちっぽけに思えてくる時、そこに人生の広やかさが確かにうなづかれてくるのではないでしょうか

有無同然・憂思適等(うむどうねん・うしちゃくとう)

【出典】
『仏説無量寿経』(『真宗聖典』58頁)
少長男女共に銭財を憂う。有無同然なり。憂思適まさに等し。(乃至)田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(乃至)田なければまた憂えて田あらんと欲おもう。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。

【ひと口解説】
仏教とは、人間の苦悩からの解脱を目的とするものですが、それは一方、苦悩する人間の姿を見つめてきた歴史でもあります。ここには、あればあったで失うことを恐れ憂い、なければないで恨み妬み求め、憂いが止まない、どちらであっても苦しみが尽きない人間の姿が描かれています。
ある方が「仏教としてお金はいくらぐらいまで持ってもいいですか」と尋ねられました。それに対してある師は「持てるならいくら持ってもいい。ただし。いつでも捨てられるような持ち方をしなさい」と応えられました。お金に対する姿勢を見事に言い当てられた言葉です。とても難しいことではないでしょうか。宝くじあたったらどうする?というのは、よく話題に上がることですが、まだ
手にしていないお金は大体気前がいいものです。けれども眼前にしたらどうでしょう。きっと言った通りにはならないのではないかと思います。身近にあふれている遺産問題も同様でしょう。これは、ほしがることを否定するのではなく、足りないものを求めその
先に幸せがあることを疑うことがない私たちに、本来「無一物」であることを教えようとするものです。あってもなくても憂うのなら、そこには、今ある事・ものに眼を向ける姿勢というものがひとつ必要なのではないでしょうか。かけがえのないものに包まれているのが我々の存在です。
今一度、見つめなおしてはどうですか?

短いけれど指のない
まるいつよい手が何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる短い手もある
ある ある ある みんなある
あるさわやかな秋の朝

【作者】中村久子(1897-1968)『こころの手足』

【ひと口解説】
中村久子さんは、3歳の時、凍傷からの突発性脱疽で両手両足を失われました。その後、幾多の不幸にまみえながらも、親鸞聖人の言葉を記した『歎異抄』に出遇い、苦難の人生を恨むことなく前向きに生き抜かれた方です。
標題の言葉は、中村さんの遺された言葉ですが、これは決して「両手両足がない人がいるのだから、あることの幸せを知りなさい」ということではありません。中村さんは親鸞聖人の教えに出遇うことを通して、恨みや妬みの思いの中で、あるものをよろこぶことに目覚められました。それは、ないものに眼を向けるとき、すでにそこにあるものを見失っている自身に気付かれたのではないでしょうか。だからこそ、そこから「あるある ある」の世界が開かれたのでしょう。
私たちは、言うまでもなく幸せを求めます。しかし、その幸せを求める手だてが私の外にあるものだと錯覚するとき、かえって元からあるものを、当たり前にしてしまっている自分がいるのではないでしょうか。仏教では天国を迷いの世界と説きます。それは、そ
こに存在する苦しみを迷いと押さえているからです。その苦しみとは、全てを当たり前にしていく在り方と、それを後悔と共に失う苦しみです。全てが思いのままに満ち足りることがそもそも絵空事なのでしょう。
人生を「足りない」と見つめる眼と、「足りている」ものを見出す眼。あなたはどちらがほしいですか?